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禅定寺(ぜんじょうじ)は京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺にある曹洞宗の寺院である。山号は補陀洛山、院号は観音妙智院。開山は平崇。本尊は十一面観音。宇治田原町の郊外、滋賀県境に近い位置にある。近世以降は曹洞宗の禅寺となっているが、元は東大寺の末寺であり、平等院や藤原摂関家ともゆかりの深い寺院で、本尊十一面観音立像をはじめ、平安時代にさかのぼる仏像群を有する。 == 歴史 == 禅定寺は、宇治方面から宇治川の支流田原川に沿って近江(滋賀県)の石山方面へと向かう道沿い、滋賀県境に近い山里に位置する。この地域は平安時代中期以前には久和利郷と呼ばれ、禅定寺の前身にあたる桑在寺(くわりじ)という寺があったという。 寺に伝わる『禅定寺造営年次目録』によれば、この寺は東大寺の別当(寺を統括する最高位の僧)などを務めた僧・平崇によって創建されたものである。平崇は藤原兼家(藤原道長の父、関白、太政大臣)の帰依を受けて永延元年(987年)より造営を開始、正暦2年(991年)に本堂を建て始め、完成したのは長徳元年(995年)であるという(この間、正暦元年・990年には兼家が没している)。それから数年後の長保3年(1001年)の日付をもつ「禅定寺領田畠流記帳」によると、禅定寺は地元の田原郷に一千町歩の杣山や田畑を有し、その他の地方にも寺領を有していた。この禅定寺領は延久元年(1071年)、平等院に寄進され、禅定寺は平等院の末寺となった(それ以前は東大寺に平崇が建てた正法院の末であった)。 このように、禅定寺は平安時代を通じて藤原道長、藤原頼通(道長の子、平等院の建立者)らの貴族の帰依を受け、広大な寺領を背景に栄えた。寺の運営は寄人(よりうど)と称される、寺に所属する領民によって支えられていた。 寺に残る文書によると、中世の禅定寺は近隣との境争論をたびたび起こしており、中でも九条家領(最勝金剛院領)の曽束荘(そつかのしょう、現大津市大石曽束町)との山堺争論は中世から近世末期まで延々と争われたことで著名である。 寺は戦国時代には衰微したが、近世に入り、延宝8年(1680年)に加賀・大乗寺(金沢市)の中興である月舟宗胡が入寺し、加賀藩老本多家の援助を得て再興している。これ以来宗旨を曹洞宗に改めて現代に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「禅定寺 (京都府宇治田原町)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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